江戸時代
賤ケ嶽合戦図屏風(六曲一双) しずかたけかっせんずびょうぶ


天正10年(1582年)6月、織田信長が「本能寺の変」で重臣・明智光秀に刺されたあと、
直ちに光秀を威したのは羽柴秀吉で、秀吉はこれによって天下統一の主導権を握りました。
それを快く思わない柴田勝家と秀吉は、ポスト織田信長を争うようになりました。


天正11年(1583年)4月21日、秀吉と勝家の甥・佐久間盛政と
近江国、琵琶湖の北にある賦ヶ岳(しずがたけ)で合戦し、
佐久間盛政軍は大敗しました。
この合戦で手柄を立てたのが秀吉軍の若武者たち9人、
福島市松(正則・1561〜1624年)
加藤虎之助(清正・1562〜1611年)
加藤孫六(嘉明・1563〜1631年)
片桐助作(且元・1556〜1615年)
脇坂甚内(安治・1554〜1628年)
平野権平(長泰・1559〜1628年)
糟屋助右衛門(武則・1559〜1626年)
石河兵助
桜井佐吉
世にこれを「賤ヶ嶽の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)」と言いました。
余談ですが、秀吉軍は、このまま越前北庄を攻め、
ついに24日、柴田勝家・信孝は自刃して果てました。


本屏風はこの合戦の様子を描いたもので古来有名の品であります。


大阪城内にもこれと同じような屏風が展示してあります。

●本当は「賤ヶ嶽の九本槍」???
石河兵助は賤ヶ嶽で戦死し、桜井佐吉も、その後、早くに病死しました。
後の世の人々は、この2人を外して「七本槍」と呼ぶことにしたようです。
他にも諸説イロイロあるようですが...